同人とかコミケとか理念とか図書館とか

2chの同人誌図書館スレを見ていてどうしても気になったのが、「金を出して買ってもらった」「見本誌はタダで渡した」という区別。結局、おまえが欲しいのは金か。金の為に同人やってんのか。金を出せばなにしてもいいのか。
本音渦巻く匿名掲示板、本音全開なのはいたし方あるまい。しかしなんのための建前があるのか忘れないで欲しい。金にこだわるその発言は、その足を抄うモノだ。パロじゃないから大丈夫とか言う人もいるが。
金の話がいかんというのではない。同人に関わる根源的なものって、「欲求」だと思うから。
「この物語を作品にしたい」「この妄想を絵にしたい」「このキャラのエロが見たい」そんな、ひとそれぞれの欲求を紙の上のバーチャルな世界で広げる。「有名作家になりたい」「この作品で認められたい」「同人王にオレはなる」「じゃんじゃん作って金儲け」リアルな世界での欲求を満たすのもありだ。

同人者は一人じゃない、無数の草だ

個々人が、同人は自分の趣味でやっているだけだと言うのは、まったくその通りだし好きにすればいい。
でもそんな人の思惑とは関係なくコミケの規模は膨れ上がってて、同人誌に関わる人は増え、同人界が拡大した以上、同人というものが人の目に付くことは避けられない。必然的に価値や意義だといった社会性を求められるし、どう捕らえられるかをコントロールできない以上、興味本位の見方をされることも避けられない。
同人という世界は悲しいかな大きくなってしまっていて、その頂点で最大規模でもあるコミケはどうしても注目を浴びるし、何かコトあれば矢面に立たされる。それゆえに、コミケが代表して社会とのすり合わせをしていかなくてはならない立場に置かれている。
一度表の世界に引きずり出されてしまったら、裏に戻ることは出来ない。かつて日本に存在した浮世絵のように、滅亡を選ぶなら別だが。
大人になった子供はもう子供には戻れない。いつまでも閉じた世界の中でぬくぬくはしていられないということを認識しないといけない。

10年前でも10年後でもなく

今の同人の、先頭にいる世代というのは50代になってるんですよ。もう間違いなく人生の折り返し点を曲がってる。道を戻って過去には進めないが、かつて自分達が走っていた道が見えちゃってる。
過去をまとめ、次の世代に渡せるものを作るというところに目が行く年齢になっちゃってる。
米澤記念図書館をきっかけとして、将来の夢から現実的なものとして考えるような時期になった。

コミケは巨大であるが故に社会的責任も背負ってしまっている

どうしたって社会と付き合っていかなくてはいけなかった。自身が億の金を扱わねばならないこと、そのためには法人化しないと社会的信用が得られないこと。
そこまでしても、問題も多い同人の世界。大きくなったのに、ちょっとした風でぐらぐらと揺れる弱い存在だ。そんな逆風を吹かせかねない社会に対し、存在を認めさせ、安全に続けていく地盤を作っていかなくちゃいけない。
そのためには「文化」というお題目がとても有効に働く。「文化」としての価値を認めさせるために資料をまとめ、体系を作っていく。
実のところ、多くの人は「文化」の中身がどうかなんてことは気にしてない。世間の人はとっても権威主義。なんか偉そうな人たちが繰り返し繰り返し「文化」だと言えばそんなもんかと思ってくれてしまう。
「文化」なんてものは、当人が「文化」だと思えばそれでよしなのに。個人的にはそんなラベルはどうでもいいけど、使えるものは使えばいい。利益になるなら活用すればいい。

コミケは一度大きな選択をした

会場がビッグサイトに変わったとき、どうにも使いにくい空間の活用法に悩み、企業を誘致することにした。
どうせやるなら、著作権で対立しかねない立場の版権者を内に取り込み、なあなあの関係を作っていこう。版権者を共犯者にしてしまえばいい。最初は低調に、いつのまにやら絶好調。
著作権者にとって、パロディ同人誌が存在できるのはお目こぼし。企業に利用されることでその余地が増えるなら多少のすりよりも悪くない。その間にも、踏み込みすぎて撃たれたものもいるけれど。

公立図書館の営利活動

営利企業がどうとかなんとかという話があったのでふと思ったのだけど、運営費を捻出するために図書館がネーミングライツを売ったりなんかしたらどう扱われるんだろう。
とりあえずでも、最初にやったもん勝ち。あとでキャンセルになっても、ニュースで扱われて話題になって知名度上げれば意味は無くとも勝ち組。
CCレモンホール(渋谷公会堂)とかナイキ公園(宮下公園)とか、ネーミングライツに前向きな渋谷区なんかどうでしょう。
角川ルビー文庫図書館」とかになったらまたひと悶着。