ちょっとだけ古いコミケから

残してよかったコミケの古カタログ、実家帰った折にちょっと発掘作業してみたよ。たまには実家にも帰りますよ、正月を避けて。
スミからスミまでというのはしんどいので、今ホットな同人誌図書館の話題につながりそうなところだけテキスト化。図書館構想はコミケットの理念と地続きにある夢なんですよってことで恣意的に選んで。
スキャナーとかデジカメが無い環境なので画像はパス。新品のステキなスキャナーとか作業用の気持ちいいパソコンとか、いい感のデジカメを贈ってくれるサンタさんがいればなんとかできますが。

まずはコミックマーケット39。1990年冬、コミケ3回目の幕張。
この時期、前年1989年夏のM君事件のからの流れでショッキングに扱われかけた嵐は過ぎ去り、メディアの中でのコミケや同人誌の扱いには評価する傾向も出ていた。コミケの運営がボランティア活動として注目されて、企業から参考にしたいって言われちゃったとかいうのってこの頃の話だよね。

コミケット39カタログ p.487 ブロックノートセレクション

ブロックノートセレクションとは、コミケ当日、準備会が全参加サークルに描いてもらっていた「ブロックノート」の中から、当日の雰囲気を伝えるものをいくつか選んでカタログ内で紹介していたものです。
ブロックノートを各島に配り、終了後に回収するのがブロック担当ということで、ブロック担当の仕事を紹介する記事。ブロック担当は開場前に各サークルから見本誌を集める役も負ってます。対サークルの窓口役。

さて、我々ブロック担当スタッフの仕事は、ブロックノートをまわすだけじゃ無くて、見本誌回収という仕事もあるんですよね。サークルの皆さんの中には、何で見本誌を出さなきゃいけないんだという疑問を持つ方もあるようですが。
そーいうこともあろうかと・・・・、こっちも米沢に直接説明させましょう。
ふじ) と、言うわけで、なんで見本誌回収してんですか?
米沢) まず一つには、準備会ってのは場を提供してるだけなんですけれど、一応対外的には、コミックマーケットについての質問その他は、準備会に来るわけですよね。で、「どんなものが来てるのか?」、「どう管理してるのか?」とか、いろいろと聞かれた場合に、こちらで最低は把握しておかなければならない内容ってのがあるわけです。まぁ結局、何かトラブルがあった場合に、それをこちらがチェック出来ないと困る。そういった、たてまえ的な部分があるわけで、実際、今までにそういう事態が2〜30回ぐらい起こっています。もう一つは、いわゆる出版物っていうのは国会図書館で集めてるわけですが、同人誌に関しては、極端な話何処も集めてない。で、そういったものが何処にも残らないってのは、やっぱりイヤだと思うんですよ。つまり、資料的にはコミケットが「古くから集め続けてきて充実してる」という点からも必要だと思うわけです。だからそれをすぐに止めてしまうことは出来ないし、継続してきたものってのを続けていくしかない。そうすることで意味のなかったものに意味が生まれてくるし、こういう形で一つの文化、あるいは表現の形っていうのを残していきたいっていうのが、もう一つの理由なんです。最終的には同人誌図書館っていうのを夢みてますけどね。とはいえ、今、同人誌図書館を作ろうとしても、実際に人間を置いて、場所を確保してっていうのはちょっと出来ないんですが、もしかしたら、いずれ出来るようになるかもしれないし、ひょっとしたら国が金をだしてくるかもしれない。また、もしコミケットが無くなってしまって、同人誌だけそういった「資料」として残った場合には、国会図書館にまとめて寄贈という最終手段があるし。そうすれば国会図書館に何十万冊という同人誌が資料として使えるようにはしたいと考えてるわけです。MGMとかコミティアってのは、見本誌ルームをもうけて見せてるわけですよね。ただ、コミケットの場合、実際にそういうことがやりたくても、どうやるかっていう方法が見つからないってのも現実なんですよね、あまりに規模が大きいし。しかも、見本誌は1冊だけですから、一度無くなったり破損したらどうしようもないと。で、とりあえずは保管して、保存するっていうことを目的にしてるというのが、公共的な部分も含めて、コミケット準備会がやっていかなくちゃいけない一つの仕事だと思ってやってますね。あと、見本誌に関しては、スタッフが回し読みしたり閲覧することは出来ますが、貸出は一切行っていません。例えば、マスコミ関係とかに準備会が貸し出すということはやってないわけです。基本的には「出さない」という形で保管してるし、捨てたり、破ったりはしませんので、安心して下さい。ちゃんと提出してあれば、保存してありますので。
ふな) ということですので、サークルの皆様御協力を宜しくお願いします。

場を提供する準備会も頒布に対して相応の責任を持っているので見本誌チェックをしてます。また、頒布された同人誌を消えないようにし将来に残していこうという意志も明確にされています。そういったこともするのが、個人ではない、同人誌界を支える組織の役割だという位置付けが示されてます。
この文章は、コミケット44のブロックノートセレクションでも再掲されていました。多少修正されていたようですが、基本同じなので省略。

コミケット39カタログ p.490 いかさまスポーツ

いかスポという下品な記事が売りのページがありまして。基本、ネタ記事なんですが、なんでかマトモな記事があったり。そのうち、準備会代表に投げた質問の1つ。

(5) 次に「次回は?」ということで、次回以後、世間に対するコミケットのアピールの仕方、そしてそれに伴うマスコミへの対応は?
Y まず、最近まで持たれていた「本当に特殊な趣味の人だけが一部集まって内輪だけでやっている」というイメージだけはゼッタイ無くしたいから、そーいうものに関しては、一応オープンで見せていきたいですね。とはいえ、マスコミが来た場合には、最低限やっちゃいけない事項は守らせるように誓約書とるけど。ただ、サークルとか参加者の人達にマスコミが聞きたいと思うこととかは、恥ずかしがってばかりいないでキッチリ聞かせて、「自分達がやっていることは悪い事でも恥ずかしい事でも無いし、ちゃんとそれなりの意味を持ってやってるんだ」ってことをアピールしてもらいたいですね。逆に、コミケに対するマスコミの対応に関しては、昔ほど好奇心とか、「やっぱりこんな人」っていう見方じゃなくて、ちょっと無視できない1つの「カルチャー」みたいな形で受けとめようとしている部分が最近はあるんで、せっかくここまで「わりとひらけた形のコミケット」になってきているのだから、それは崩さない様に、出来るだけちゃんとした形にしていきたいですね。

こういったことが語られるのも、同人誌の置かれた状況が変わりつつある中にあったからこそだと思います。厳しさもあるものの、同時に雪解けも感じられる時代でした。


1990年冬のコミケ39はトラブルらしいトラブルも無く終了しました。が、翌年初春、有害コミック関連で大きな動きがあり、1991年夏のコミケは幕張の会場側から使用を拒否されて中止の危機に陥りました。関係者の尽力もあって、日程こそは変わったものの、晴海での開催をとりつけ返り咲きしたのです。
目の前に突然突きつけられた絶望的な状況の中、コミケという場を作りつづけるために参加者への呼びかけが行われることになる。

コミケット40カタログ p.2 コミケットの理念と目的

○マンガやアニメ、及びその周辺ジャンルにおける表現の可能性を追及する場としての同人誌。それを一般に向けてアピールする場がコミケットであり、その場の確保を通じて、描き手達の営為を充分に反映させていくことをコミケットは目的とします。
○それは新たな可能性を求める人達が作品に出会える為の場を恒久的に用意していくことでもあります。
○プロや既製の物にはない新しい形でのマンガ、アニメの展開を結実させていく為のファン活動、創作活動を行う人達の為に、出会いやぶつかり合いを通じて、刺激を与えていく活性剤の役割をコミケットは果たさなければならないのです。
○マンガ、アニメファンは皆同じ立場に立つことを信じることで、作品を含めた出会いによって、全てが連ながり合える状況を創り出していくことを目的としています。それは、人間、メディア、作品全てが、「表現」であることを前提とした、対話の活性化による、十全なる交流です。
コミケットは、マンガ、アニメファンが、コミケットを必要とする限り、なんらかの形で恒久的に続けられていかねばなりません。
コミケットは、容器である故に、参加者や状況の変化によって、その内実は変わり続けていくことになります。コミケットの変化とは参加者の変化であり、状況の変化です。
コミケットは、マンガ、アニメ、SFを中心とした同人、ファン活動に関わる人達のコミュニケーションの場であり、一般に向けられた表現の発表の場です。
○場であることを前提としている以上、コミケットに参加の意思を持つ、サークル全てを容認していかねばなりません。
(但し、他人に迷惑をかけたり、場の運営に支障をきたすような意図を持っての参加は見あわせてもらう場合があります。)
コミケットは、基本的に、企画参加者としてのサークル、読み手としての一般参加者、そして準備会の三つを構成人員として行われる、マンガ、アニメファンの交流会です。コミケットを取り行うのは全ての参加者であるというのが基本です。
○参加者全員は、全て平等の立場にあり、開場から閉会までのコミケットに与えられた時間は、全て個人の責任において動いて行くことになります。
コミケットは、表現において自由な場であらなければなりません。それについては、自由を守る立場を貫ぬいていかなければならないと考えています。
○表現に限らず、自由な空間である以上は、参加者の自主性と共に、各自のモラル、常識、自覚が必要とされます。コミケットという場をより可能性のある物にしていく為に参加者は全員、その場を維持していく立場をもって参加してもらうことになります。
○準備会の立場からの規制をできるだけやる必要のないような形でのコミケットが一番望ましいのです。又、準備会は、運営上最低必要の形でしか規制を行わないようにしていくつもりです。主な役割は場のプロデュースです。
最近TVや新聞での報道が多く、コミケットも仲間内のイベントでは済まない状況になりつつあります。良きにつけ悪しきにつけ、これだけの人と情報が集まることで、多くのマスコミの注目を集めてしまうのです。参加者ひとりひとりの行動が重大な結果を招きかねません。このコミケットマニュアルには参加サークルが知っていなければならないこと、守って欲しいことが書かれています。
それはコミケット素晴らしい一日を過ごすために不可欠であると考えています。当日サークル参加される方はこのマニュアルを熟読してください。このマニュアルを読み理解することは、コミケットを存続させるための前提であり、サークルの最低条件だと準備会は考えています。
 このマニュアルでの疑問などは準備会におよせ下さい。(申込書マニュアルより再録)

参加申し込みをするサークルだけが手にする申込書マニュアルに書かれているものなので、一般参加者は初めて触れる内容だったかもしれません。全ての参加者が共有すべきもののはずなのだけど、妙なところで準備会は消極的です。
基本的に、参加サークルはこの理念を理解し同意した上で申し込んでいます。そうでなくてはコミケという場が成り立ちませんから。

コミケット40カタログ p.3 なんでいったいどうしてコミケットは作られたか?

 コミックマーケットことコミケットは、間違えば孤立し、仲間内にとどまりかねないマンガ同人誌活動を広く一般に向けてアピールする為の場として始まりました。形としては、同人誌、ファンジン展示即売会の体裁を取り、さらに幾つかの自己表現を容認するものとなっています。マンガ、アニメに関わる人達の自己表現としての同人誌は、印刷されたとたん、不特定多数に向けられたメッセージ、メディアとなります。それは受け手があって初めて成立するひとつのコミュニケーションです。
 描き手、創り手はより多くの人に自らの表現をぶつけてみたかったでしょうし、読者もまた、新しい可能性を持った作品に出会ってみたかったのです。ファン雑誌もマンガ情報誌もマニア向けのマンガ誌もなかった十数年前、それは切実な願いでした。送り手と受け手が同人誌の受渡しを通して画るコミュニケーションの場、マンガ、アニメファンが出会える場所、それがコミケットの「場」としての基本です。
 その「場」を恒久的に用意し続けていくことで、読者状況の変革、プロダムとは違った形での創作の出現に力を貸すことをコミケットは一つの目的としていました。さらに、場であるが為に、単なる売買のみでなく、人と人との出会いも機能に含まれています。そのことが、コミケットを、マンガ、アニメ、SFファンの社交場にしているのかもしれません。
 そうしてコミケットが生まれてから十五年が経ちました。メジャー誌のふところは広くなり、雑誌では日々同人誌の描き手がデビューしています。マンガやアニメに関する情報は、専門の情報誌を中心としてあふれかえり、日々何処かでサークルの集会が開かれています。また、即売会そのものも数が増え、日本国内で考えれば毎日何処かで即売会が開かれている計算になります。
 十数年前、コミケットが求めた、マンガ状況の変革は、今、そういった形で現実のものとなっています。しかし、それは考えていた「ユートピア」とは違っていたようです。もちろん、それに異議を唱えるつもりはありません、見方によっては、同人誌界は今、我世の春を謳歌しているとも言えるのです。
 そうして、コミケットに求められる意味も、状況の変化によって変わってしまいました。一つには、二日限りであることから生まれてくる「お祭り」的性格です。「祭り」とは日常の中に一日現れる「ハレ」の日のことです。祭りに参加する者達は、その祭りをより面白く、よりすばらしい物にする為に、祭りと祭りの間の日常を準備期間としなければなりません。言うまでもなく、それはサークル活動であり、個々の創作活動の事です。祭りのだしものである「同人誌」をよりすばらしいものにすること。祭りを楽しく、いかにすばらしい物にするのかは、参加サークル、個人にかかってるといえるでしょう。もちろん、祭りは無秩序であってはいけません。自由とは、好き勝手できることとは違うのです。
 また、多くのサークル、一般参加者が集まるコミケットは、商品の数、買い手の数の点で「マーケット」的機能では、充実してきていると言えるでしょう。サークル活動の結実としての同人誌は、ある意味でまぎれもない「商品」なのです。が、それは「作品」であることも忘れてはなりません。特に、創り手にはそこのところをいつも考えてもらいたいと思います。「場」であることを前提としたコミケットは、マンガ、アニメ等に関するあらゆる表現行為を認め、反映させ、可能性を伸ばしていかなければならないと考えます。何かを為そう、少しでも先に進もうとする人達の為に、コミケットは一つの自由な空間として推維されていかなければなりません。
 その空間を彩り、埋めるのは参加者です。「コミケット」を創りあげているのはサークル、一般参加者、準備会…つまり参加者全員なのです。そこに集まった人達は、みな平等にコミケットの一部なのです。そのことだけは忘れてもらいたくありません。いかに巨大になろうと、それは個々が創り上げたものなのです。殻が大きくなっても、中が空疎では、やがて解体していくでしょう。少なくとも、コミケットは、それを求める人がいる限り、続けられていくことになります。永遠に、用意され続ける「場」。もし、それがなくなるとしたら、「場」本来の意味がなくなる時なのかもしれません。
 参加者の変化によって、時代の要請によって、これからもコミケットは変わり続けていくことでしょう。いや、変わり続けていかなければならないのです。完結を拒否し、未完成を力として、歩み続ける為には、そのことを確認しておく必要があると思います。

原文を尊重しましたが、「推維」は「維持」だと思います。カタログもけっこう「ワープロ」な時代でした。ハレとケという文言は、この時代の流行でもあった気がします。
見開きで大きく出されたpp.2-3の2つの文章は、会場移転のドタバタを受け、全参加者に向けた緊急アピールという意味合いからかカタログに掲載されました。でも、これがカタログに載ったのはこの回だけです。