国旗国歌強制訴訟


国歌と社歌の違い

このように、自分の思想・良心の自由の社会における行使というのは、組織への入会と脱会の自由という形で行使される。気に入る組織がなければ、新たに組織を作ることもまた自由である。それが今のところ、他人の思想・良心の自由をなるべく侵害せずして自分の思想・良心を行使する最良の方法のようなのである。
翻って、「国民」というものはどうであろうか?
「社員」ほど簡単に入脱できないことは明らかだ。それは不可能ではない。しかしその行使は現在においても命がけに近い。しかもそれすら「どの国の国民になるか」という選択であり、「どの国にも属さない」や、「今ある国家に気に入ったものがないので新しく作る」という選択肢は事実上存在しない。
社員と会社で対比するものは国民と国家ではないと思うけどね。
会社員と同様、彼らは自らの思想信条を守るために公務員、教員を辞めることはできる。少なくともその職務上、公務員は個人の思想信条を抑えなければならないという条件を受け入れた上でその職に付き、辞めることで守れるものがあるのに、あくまでもその位置に立ちつづけている。
一方で、思想信条を理由に公務員を解雇することはできない。思想信条と衝突しないように、国旗国歌を強制されない場へ異動させることはできる。
だから、処分ではなくそういう場所、卒業式に出ないで済む業務を用意するのが筋だと思う。公務員の雇用方法はそうなってないけど。教員として採用されたのに他の業務をやるというのは納得がいかない人もいるのかもしれないが。



教師による「強制」

私が教師だとしよう。
「何某君、ちょっとこれを視聴覚室まで運んでくれ」と言うと、彼は「はい」と言って持って言ってくれるだろう。何某君が十年前の私だったら、そうする。「くそ、面倒くさいなあ」と思いながら。このとき私は権力を行使している。
ここで私が「何某君、申し訳ないんだけどこれを視聴覚室に運んでくれないか」と腰を低くして頼み、何某君が私のことを心のそこから敬愛し、私のためならたとえ火の中水の中という人間でも、ことの事情は変わらない。なぜか。
何某君は私の生徒であり、その辺の通りすがりの知らない人ではないから。私は頼み=命令に従ってくれる人間を選んで、影響力を発揮しているのであって、もし見ず知らずのあなたに「さあ、これを運びたまえ!」といったら、多分あなたは私と目をあわせないようにしながら逃げるだろう。係わり合いになっちゃいけない人間だと思われる。
とまぁ、日常的に、無意識であってもそのシステム上、教師は生徒に『強制』をしてるわけである。教師が自身への国旗国歌『強制』を問題とする場合、教師が生徒に向ける行為や職務にも跳ね返りかねない。訴訟の当人等が意識してればいいけど。


上からの強制の連鎖を起こさせないという点では意味がある。おかしいと声をあげ、議論を呼ぶことで、それ以上の『強制』を起こさせないようにするフタになってもらう。
彼らが犠牲になって目だってくれることで、国旗国歌法は「強制をするものではなく、国民に定着させるもの」だと発言したことがピックアップされる。これを受けて、為政者側が強制ではないと言い張ることで職務命令というところに収まり続ける。
だけど、今回の勝訴と関連報道で、世間にかなり反感が広がってしまったのではないだろうか。しかも、控訴をするなとまで叫んでいる。同時進行で公務員の不祥事も報道されたりして、公務員の綱紀を求める声は強くなるだろう。多くの人にとって、仕事中の公務員はロボットで、個人の意志で動くことは求められてない。(その一方で、自分に融通を図ってくれる『人情』を求めたりもするが)
間違いなく国旗国歌の『強制』は市民の声に支えられて強くなる。ありえない『勝訴』に喜んで得るものが何か考えたほうがいい。国旗国歌に反対してる人や『強制』反対を訴える人たちにとっては、かなりまずい地雷を踏んでしまった、いや、踏まされてしまった。