他人のコミケの昔話に乗っかり

http://www.rough-note.net/index.cgi/033をネタに

  • 晴海2期(全3回) 1988夏コミ(C34)-1989夏コミ(C36)

晴海会場は交通手段がバスしかなく、近隣の駅からも徒歩30分以上あるというある種過酷な場所でした。

当時は最寄の駅、銀座・有楽町や築地から歩くのが定番でした。築地市場を通り過ぎ、勝鬨橋までいくと、周りにいるのはすべて同類、戦場へ集う戦士の大行進という図が出来上がります。
豊洲から歩くというルートも利用者は少なかったものの、まったくないというわけでもなく、有楽町線を使う人限定で意外に実用的でした。このルートは歩いているうちに周囲の景色が変化する様が見物です。団地があり、道路ぞいの人工的な自然環境があり、配管むきむきの工場もみれる。
帰りのバス乗車が30分待ちとかを経験してしまうと、じっと立って待つのも歩くのも差がないということで、歩くのが自然な選択だったのです。銀座に出れば喫茶店も飲み屋も豊富にあるわけですし、アフターを考えている人にも優しい。
しかも、東京直行ならともかく、晴海通りを通るバスは使い物にならないのです。午前中は築地市場の出入りで、午後は銀座周辺の混雑に巻き込まれ。


夏のワンフェスが同日に浜松町・都産貿で開かれてて船で移動したり。本数の少ない船を待つのと、有楽町経由でどっちが早いのやら。

会場が単体化したことで移動が楽に。
晴海時代はいちいち屋外に出て移動する必要があって、特に夏場は地獄でした。

晴海では会場内に大通りがあって広かったため、それがないメッセは狭いと酷評されてしまうことに。ホールを分断するなんたらのモールはコミケにとってはあまりにも小さいスペースで、意識のとんだ屍とコスプレがぎゅうぎゅうと詰まる場所となりました。

しかし、別イベントが併せて開催されていたため、さらに混乱に拍車が。
恐竜博や現代美術展などなど。余談ですが当時小学生だったため、そっちに誘導されそうに……
宗教関係とイベントがカチ合っていたというあやふやな記憶が……
詳しくは覚えていませんが、イベントホールで集会があったような気が。

駅から会場までの道中、スタッフは一生けんめい他のイベントとの振り分けと誘導をしていましたが、完璧にはいかないものですな。コミケのスタッフなのにコミケ以外の誘導をこなし何しに来たのか疑問を抱いたという。
最初の冬は宗教系のイベントが別ホールを使っていました。で、入場列で身動きの出来ないひとに丁寧に話し掛けて回る人が出てきてしまうのです。

  • 晴海3期(全10回) 1991夏コミ(C40)-1995冬コミ(C49)

恥ずかしながら帰って参りました。
幕張メッセは新天地、我等Doujin安住の地、そう思ってたときもありました。緊急の会場変更は期日も変更になって、予定が崩れて大さわぎ。最終的に、純一般参加者にそのことが伝えられたのは7月に入ってから。
幕張のブランクをおいた丸2年。晴海全館を使うまでに拡大をし、参加者も2倍に膨れ上がっていました。後に語られることになる同人バブルの様々な伝説は人が増えたことも一因でしょう。
あれほど広さも余裕も感じられた晴海会場が一転、人のひしめき合う狭い会場になってしまいました。広さは増えたのに、密度も上昇。

冬コミ恒例・待機列から見える新春『出初め式用櫓』。
晴海会場の待機列(=駐車場)では、毎年新年に東京消防庁による出初め式が行われていて冬コミ頃には既にその準備がされていました。

ビッグサイトに移転したのはコミケだけではないのです。長いこと行列を作る駐車場の端、東京直行バス乗り場に崩れそうな建物とか作られていましたが、これがなくなってちょっと目立たなくなってしまいましたが今も冬コミのときに見ることができます。
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/inf/h19/i24.htm

92年夏、猛暑と人々の熱気により新館では救護室に搬送される人が大量発生。

ひとしきりお買い物を終え、ほっと一息ついた瞬間目に入ったのが、まだ会場の外でとぐろを巻いている列。なんてことでしょう、入場列が午後になってもはけなかったのです。入場列解消は3時だったとかなんとか。
いわゆるこれがジェノサイドコミケ。カンカンに照る太陽に負け倒れる人も多かったために直射を浴びないように入場列を崩させたとか聞きます。過酷な状況を生きのび入場を果たした人たちは、その状況を熱く語るのでした。倒れた人はもう動けないが、倒れなかった人はまだ元気。

そして同年、東京直撃コースをたどっていた台風11号海上で止め、さらに進路を西へとひん曲げる。
93年夏、雨が降りしきる都内の中で、コミケ会場上空"だけ"が晴れる。

台風を南海上でせき止めることに成功した脅威のコミケ。その台風は進路を変え、翌週大阪で行われたイベントに被害を撒き散らすことになったという。
南の海に大小あわせて3つの台風(熱低?)がうなっていたときは恐怖そのものでした。この第3期晴海時代は雨を弾き台風を押し止め、晴れ伝説を築き上げ煩悩パワーの脅威を植付けました。
この煩悩パワー、ビッグサイト移転以降は変調を見せ、参加者の高齢化に対応し優しい天候をつくりあげる傾向が出てきました。あんまり過酷な状況だとおじいちゃん、倒れちゃう。時々コントロールに失敗して大雨になるのがタマにキズ。

コミケの徒花・下ネタアホネタなんでもござれの「いかさまスポーツ」(準備会制作)。
ブロックノート*4の内容を紹介するコーナー「ブロックノートセレクション」がカタログでは名物に。しかしサークル間でのトラブルがあり惜しまれつつ終了。
たつねこ氏の挿絵によるファッション関係のコーナーなどもカタログでは恒例に。
他にも「アニメアメリカ」などの海外イベントのレポートやF1風パロディネタなど、当時から読み物的記事がカタログにはよく収録されていました。

雑多な企画ページがカタログのお楽しみ。ファッション講座は批判も浴びたバブルのあだ花。そんなおまけのいろいろな記事の中にもけっこう学ぶことがあったり。

移転の大混乱をものともしない猛者・都バス。
一番バスは朝5時50分頃出発、6時10分頃到着。移転当初からしばらくは一番手間がかからず安全に到着する手段として好まれていました。
新木場駅国際展示場駅もさながらレミングス
当時のりんかい線は4両編成。そこへ有楽町線10両・京葉線8両から人がひっきりなしに降りてくるのに際限なく人を入れるから、とにかく詰まる詰まる。ちなみにパスネットSuicaが導入される前は、JTBで事前に乗車券を購入しておくと窓口側から簡単に通過できるという裏技が存在してました。
ゆりかもめ国際展示場正門駅じゃなく有明駅なら座って帰れた。
少し遠回りでしたが。移転数年後までは新木場・新橋からしか電車でのアプローチ方法が無く、参加者は散々苦労していました……

移転前にスタッフがビッグサイトを視察した結果、既設の交通機関はまったく使い物にならないと判断し、都バスとのタッグが大々的に開かれることになったようです。使えない・使いものにならない、だから使うなとさんざん喧伝したおかげで、ゆりかもめは意外に快適。
台場の大型施設が稼動をはじめ、テレビでも大々的に報じられもしていたため、始めての行楽シーズンとなったゴールデンウィーク交通機関は破綻をしてしまいました。当時は都市博合わせの仮設に近い状態だったゆりかもめ新橋駅は券売機の前に人が詰まり渦を巻き、いつ乗れるのかまったく分からない状況。臨時に台場行きのバスを出していたものの、確保できたバスが少なかったのか台場周辺の渋滞に巻き込まれたのか、これも次がいつ来るのか、乗ってもいつ到着できるのか分からない。
コミケよりも先にビッグサイトで同人誌イベントを開くことになった赤ブーブー、スーパーコミックシティはそんな破綻した環境の中で開かれることになりました。これが同人者の経験となってコミケではゆりかもめを使おうという人はかなり減ったのではないでしょうか。
ゆりかもめがわりと楽に済んだ一方、コミケでは別の場所で大混乱。新木場の乗り換え時に、券売機で人が詰まり、ホームに入りきれないために改札も入場制限。京葉線有楽町線の大容量を小容量の臨界高速鉄道で受けるというアンバランス。ピーク時には駅の外にまで列が伸びる。
晴海の感覚で、辰巳から歩いてもたいしたことないんですけどね。そう言って歩いたら驚かれましたが。行路の半分ぐらいずっとビッグサイトを眺めて歩きます。行きは新木場と会場をピストン移動してるタクシーを拾うのも手。
国展駅を超えてコロシアムの向こうまでだらだら歩き、テニスの森でバスに乗ったこともあります。さすがに、交通機関の充実した今使う気にもなりませんが。

記録として

昔話が書ける人はどんどん書いて欲しいものです。古い話ほどネットには残ってない。
古いカタログの記事とかスキャンしてやりたいけど、実家にはスキャナーがないんだよ。勝手に公開するとアレなので、そういうのはP2Pでこっそりな。